雛人形

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収納飾り・ケース飾り
翔陽作 5号兜収納箱飾り

翔陽作 5号兜収納箱飾り-1
サイズ
間口31cmX奥行27cmX高さ39cm
収納時
間口31cmX奥行27cmX高さ18cm

価 格
¥99,000
  • 翔陽作 5号兜収納箱飾り-1
  • 翔陽作 5号兜収納箱飾り-2
  • 翔陽作 5号兜収納箱飾り-3
  • 翔陽作 5号兜収納箱飾り-4
  • 翔陽作 5号兜収納箱飾り-5

収納飾り・ケース飾り
美光作 12号兜収納箱飾り

美光作 12号兜収納箱飾り-1
サイズ
間口50cmX奥行39cmX高さ63cm
収納時
間口50cmX奥行39cmX高さ24cm

価 格
¥124,000
  • 美光作 12号兜収納箱飾り-1
  • 美光作 12号兜収納箱飾り-2
  • 美光作 12号兜収納箱飾り-3
  • 美光作 12号兜収納箱飾り-4

収納飾り・ケース飾り
平安武政作 10号兜収納箱飾り

平安武政作 10号兜収納箱飾り-1
サイズ
間口50cmX奥行37cmX高さ59cm
収納時
間口50cmX奥行37cmX高さ23cm

価 格
¥119,000
  • 平安武政作 10号兜収納箱飾り-1
  • 平安武政作 10号兜収納箱飾り-2
  • 平安武政作 10号兜収納箱飾り-3
  • 平安武政作 10号兜収納箱飾り-4
  • 平安武政作 10号兜収納箱飾り-5

収納飾り・ケース飾り
美光作 11号毛利元就兜収納箱飾り

美光作 11号毛利元就兜収納箱飾り-1
サイズ
間口50cmX奥行33cmX高さ64cm
収納時
間口50cmX奥行33cmX高さ25cm

価 格
¥125,000
  • 美光作 11号毛利元就兜収納箱飾り-1
  • 美光作 11号毛利元就兜収納箱飾り-2
  • 美光作 11号毛利元就兜収納箱飾り-3
  • 美光作 11号毛利元就兜収納箱飾り-4
  • 美光作 11号毛利元就兜収納箱飾り-5

収納飾り・ケース飾り
雅峰作 12号金小札赤糸威し兜収納箱飾り

雅峰作 12号金小札赤糸威し兜収納箱飾り-1
サイズ
間口50cmX奥行33cmX高さ65cm
収納時
間口50cmX奥行33cmX高さ23cm

価 格
¥133,000
  • 雅峰作 12号金小札赤糸威し兜収納箱飾り-1
  • 雅峰作 12号金小札赤糸威し兜収納箱飾り-2
  • 雅峰作 12号金小札赤糸威し兜収納箱飾り-3
  • 雅峰作 12号金小札赤糸威し兜収納箱飾り-4
  • 雅峰作 12号金小札赤糸威し兜収納箱飾り-5

収納飾り・ケース飾り
美光作 10号伊達政宗兜収納箱飾り

美光作 10号伊達政宗兜収納箱飾り-1
サイズ
間口50cmX奥行35cmX高さ60cm
収納時
間口50cmX奥行35cmX高さ25cm

価 格
¥148,000
  • 美光作 10号伊達政宗兜収納箱飾り-1
  • 美光作 10号伊達政宗兜収納箱飾り-2
  • 美光作 10号伊達政宗兜収納箱飾り-3
  • 美光作 10号伊達政宗兜収納箱飾り-4
  • 美光作 10号伊達政宗兜収納箱飾り-5

収納飾り・ケース飾り
加藤鞆美作三分之一
「源義家公兜」収納箱飾り

加藤鞆美作三分之一 「源義家公兜」収納箱飾り-1
サイズ
間口40cmX奥行30cmX高さ46cm
収納時
間口40cmX奥行30cmX高さ16cm

価 格
¥168,000
  • 加藤鞆美作三分之一 「源義家公兜」収納箱飾り-1
  • 加藤鞆美作三分之一 「源義家公兜」収納箱飾り-2
  • 加藤鞆美作三分之一 「源義家公兜」収納箱飾り-3
  • 加藤鞆美作三分之一 「源義家公兜」収納箱飾り-4
  • 加藤鞆美作三分之一 「源義家公兜」収納箱飾り-5

収納飾り・ケース飾り
加藤鞆美作 三分之一
「源義経公之兜」収納箱飾り

加藤鞆美作 三分之一 「源義経公之兜」収納箱飾り-1
サイズ
間口50cmX奥行33cmX高さ53cm
収納時
間口50cmX奥行33cmX高さ27cm

価 格
¥171,000
  • 加藤鞆美作 三分之一 「源義経公之兜」収納箱飾り-1
  • 加藤鞆美作 三分之一 「源義経公之兜」収納箱飾り-2
  • 加藤鞆美作 三分之一 「源義経公之兜」収納箱飾り-3
  • 加藤鞆美作 三分之一 「源義経公之兜」収納箱飾り-4

収納飾り・ケース飾り
平安武政作 25号着用兜収納飾り

平安武政作 25号着用兜収納飾り-1
サイズ
間口63cmX奥行45cmX高さ90cm
収納時
間口63cmX奥行45cmX高さ34cm

価 格
¥141,000
  • 平安武政作 25号着用兜収納飾り-1
  • 平安武政作 25号着用兜収納飾り-2
  • 平安武政作 25号着用兜収納飾り-3
  • 平安武政作 25号着用兜収納飾り-4
  • 平安武政作 25号着用兜収納飾り-5

収納飾り・ケース飾り
虎志郎作 25号
武田信玄公着用兜収納箱飾り

虎志郎作 25号 武田信玄公着用兜収納箱飾り-1
サイズ
間口63cmX奥行43cmX高さ81cm
収納時
間口63cmX奥行43cmX高さ30cm

価 格
¥167,000
  • 虎志郎作 25号 武田信玄公着用兜収納箱飾り-1
  • 虎志郎作 25号 武田信玄公着用兜収納箱飾り-2
  • 虎志郎作 25号 武田信玄公着用兜収納箱飾り-3
  • 虎志郎作 25号 武田信玄公着用兜収納箱飾り-4

収納飾り・ケース飾り
虎志郎作 25号
「真田幸村」着用兜収納箱飾り

虎志郎作 25号 「真田幸村」着用兜収納箱飾り-1
サイズ
間口65cmX奥行46cmX高さ81cm
収納時
間口65cmX奥行46cmX高さ30cm

価 格
¥138,000
  • 虎志郎作 25号 「真田幸村」着用兜収納箱飾り-1
  • 虎志郎作 25号 「真田幸村」着用兜収納箱飾り-2
  • 虎志郎作 25号 「真田幸村」着用兜収納箱飾り-3
  • 虎志郎作 25号 「真田幸村」着用兜収納箱飾り-4

収納飾り・ケース飾り
伯峰監修 7号大鎧収納箱飾り

伯峰監修 7号大鎧収納箱飾り-1
サイズ
間口64cmX奥行43cmX高さ98cm
収納時
間口64cmX奥行43cmX高さ35cm

価 格
¥156,000
  • 伯峰監修 7号大鎧収納箱飾り-1
  • 伯峰監修 7号大鎧収納箱飾り-2
  • 伯峰監修 7号大鎧収納箱飾り-3
  • 伯峰監修 7号大鎧収納箱飾り-4
  • 伯峰監修 7号大鎧収納箱飾り-5

収納飾り・ケース飾り
好洋作 子供大将平台飾り

好洋作 子供大将平台飾り-1
サイズ
間口45cmX奥行35cmX高さ41cm

価 格
¥152,000
  • 好洋作 子供大将平台飾り-1
  • 好洋作 子供大将平台飾り-2
  • 好洋作 子供大将平台飾り-3
  • 好洋作 子供大将平台飾り-4

収納飾り・ケース飾り
好洋作 子供大将平台飾り

好洋作 子供大将平台飾り
サイズ
間口45cmX奥行32cmX高さ47cm

価 格
¥153,000
  • 好洋作 子供大将平台飾り

収納飾り・ケース飾り
東玉監製将軍子供大将平台飾り

東玉監製将軍子供大将平台飾り-1
サイズ
間口46cmX奥行36cmX高さ46cm

価 格
¥154,000
  • 東玉監製将軍子供大将平台飾り-1
  • 東玉監製将軍子供大将平台飾り-2
  • 東玉監製将軍子供大将平台飾り-3

収納飾り・ケース飾り
14号貫先鍬形兜ケース飾り

14号貫先鍬形兜ケース飾り
サイズ
間口35cmX奥行30cmX高さ37cm

価 格
¥50,600
  • 14号貫先鍬形兜ケース飾り

収納飾り・ケース飾り
大越忠保作 10号
上杉謙信公之兜アクリルケース飾り

大越忠保作 10号 上杉謙信公之兜アクリルケース飾り-1
サイズ
間口38cmX奥行30cmX高さ43cm

価 格
¥73,900
  • 大越忠保作 10号 上杉謙信公之兜アクリルケース飾り-1
  • 大越忠保作 10号 上杉謙信公之兜アクリルケース飾り-2
【武将列伝】 上杉不識庵謙信(うえすぎふしきあんけんしん)

一度は耳にしたことがある名前ではないでしょうか?
その天才的な戦手腕から「軍神」や「毘沙門天の化身」と呼ばれた越後の龍こと上杉謙信。
「不識庵謙信」は晩年に名乗った法名です。
謙信は幾度も改名しており、改名の順は次の通り。
長尾景虎→上杉政虎→上杉輝虎→上杉不識庵謙信(幼名は虎千代)。 母である虎御前が厚い信仰心を持っていたため幼い虎千代もその影響を受けて信仰に興味を示しました。
城下にある「林泉寺」に入門し、住職の天室光育から教えを受けたといわれています。
虎千代は特に「兵法学」に強い興味を示し、2メートル四方にもなる城のジオラマを用いて城攻めのシュミレーションを行うことが大好きで、兵の駒を動かしたり大砲や道具を用いたりと熱中したといいます。
このため寺での修行を次第に疎かにするようになり、遂には天室光育から「虎千代殿に坊主は無理です」とまで苦情を言われて寺から帰されてしいました。
ただしこの時のゲームが後に用兵術を身に着ける素地になったのはいうまでもないでしょう。
宿敵である「甲斐の虎」武田信玄とは川中島で五度に渡り死闘を繰り広げました。
一番有名な戦いが第四次川中島の戦いでしょう。
武田信玄の軍師・山本勘助が考案した「啄木鳥の戦法」を武田軍の炊き出しの煙の量で見破った謙信は、本隊並みの数に昇る武田別働隊を足止めし、手薄になった武田信玄本隊へ乾坤一擲の突撃を仕掛けます。
その際謙信は自ら単騎駆けを敢行。
信玄の親衛隊を蹴散らし、信玄と大将同士の一騎打ちを行い、信玄をも負傷させます。
当時の合戦では大将同士の一騎打ちなどまずありえません。
その稀有な事例がこの第四次川中島の戦いです。
戦術では天才的な勘で動いていたことから「理の信玄、勘の謙信」といわれていました。

情け深い人柄で宿敵・武田信玄が今川家、北条家と対立し塩の輸入を止められ、領地内が深刻な塩不足に陥り疫病が蔓延していると聞くと信玄に塩を送りました。(ちゃっかり請求書付で)
この事例から「敵に塩を送る」という言葉が生まれました。
病の床に臥せる信玄が四男・勝頼に「わしが死んだら3年はわしの死を隠せ。困ったときは謙信を頼れ」と遺言し遺言通りに勝頼が謙信を頼ると、快く同盟を快諾するなど困っている人を見過ごせない性格だったようです。

戦においては天才的な謙信ですが、政治手腕はイマイチ得意ではなかったようです。
それを皮肉った言葉も残っています。
「謙信公の戦は雷霆の如し」(戦は雷の様に鮮やかだが、後に何も残らない)親幕府体制でありながら、親幕府の武田家と長年争い、反幕府体制の信長と同盟を結んでいますし、仏教を崇めているにもかかわらず、本願寺と長年抗争を続けていました。
出家していたため生涯妻を持たず、北条家からの養子である景虎(謙信は北条家からの養子を非常に喜び、自分の最初の名を送ったとされる)と実姉、綾御前の子供である景勝を養子としたものの、どちらに家督を譲るか定かにしないまま他界したため、「御館の乱」を招き上杉家は著しく弱体化してしまいました。
酒をこよなく愛し、晩年はアルコールの摂取過多により字もままならないほど手が震えていたそうです。
「四十九年一睡の夢 一期の栄華一杯の酒」と自分の生涯を振り返る詩も読んでいます。

収納飾り・ケース飾り
大越忠保作 12号
徳川家康公之兜アクリルケース飾り

大越忠保作 12号 徳川家康公之兜アクリルケース飾り-1
サイズ
間口38cmX奥行30cmX高さ43cm

価 格
¥84,000
  • 大越忠保作 12号 徳川家康公之兜アクリルケース飾り-1
  • 大越忠保作 12号 徳川家康公之兜アクリルケース飾り-2
  • 大越忠保作 12号 徳川家康公之兜アクリルケース飾り-3
名匠忠保が再現した「歯朶前立大黒頭巾」の兜部分をガラスケースより丈夫なアクリルケースにいれた商品です。
この兜は家康が関ヶ原の合戦で身に着けていたことから「幸運の兜」とされています。

【武将列伝】 徳川家康

江戸幕府創始者であり、織田信長、豊臣秀吉と並び「三英傑」とされる一人です。
隠居後は「大御所様」と呼ばれ、死後は「東照大権現」、「権現様」、「神君」など幅広い呼び名で呼ばれています。
家康も謙信と同じく幾度も改名を繰り返した人物です。
改名の順は次の通り。
松平元信→松平元康→松平家康→徳川家康
家康の遺訓は「東照公御遺訓」とされ人生訓としても広く親しまれていますが、最近では偽書であるとの説も出ています。
「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し、急ぐべからず。不自由を常と思えば不足なし。心に望みおこらば、困窮したる時を思い出すべし。堪忍は無事長久の基、怒りは敵と思え。勝つことばかり知り、負くることを知らざれば害その身に至る。己を責めて人を責むるな。及ばざるは過ぎたるに勝れり。人はただ身の程を知れ、草の葉の露も重きは落つるものかな」
家康の家系は激情で知られ、若い家康もまた激情家でした。
しかし松平一族は御家の一大事に激情のまま動き失敗を重ねていることから、家康は激情の血筋と決別すべく忍耐の日々を送り、遂には天下を収めるまで上り詰めます。
幼名は「竹千代」、父・広忠は正妻である於大を離縁したので、2歳の竹千代は母と生き別れになります。さらに広忠は織田氏に対抗するべく今川家に臣従してしまいます。そして人質として駿府城に送られる最中に義母の兄である戸田康光の裏切りにより織田氏に人質として送られてしまいます。
しかし父・広忠は一貫して今川家に臣従の姿勢を貫きました。
これは竹千代を見捨てると同義のことです。二年後に広忠は家臣の謀反により他界します。
幼き頃は人質として織田家の元で育ち、人質交換で三河に帰ってからの竹千代は今川家家臣の子供達から酷いイジメを受けます。
しかし自分のために戦で今川家に酷使され、事実上の捨石にされても耐え忍んでくれている家臣達のために(広忠が他界したため、竹千代が次の松平家の主だが、織田家の人質になっていたため、主不在の松平家を守っていた)忍従の日々を過ごします。
元服し次郎三郎元信と名乗り、正室である瀬名姫(今川義元の姪)を娶り元康と名前を変えます。(「元」の字は今川義元の一字を貰ったもの)
桶狭間の合戦で今川義元が織田信長に討たれると混乱に乗じて岡崎城に入城し、義元の子・氏真との決別を決断して独立、清州同盟にて幼き日々を共に過ごした織田信長と同盟を組みました。
その時に今川家から決別するため名前を松平家康に改めます。
そして信長の盟友として各地を転戦し、徐々に領地を増やします。
領土を拡大するにつれて甲斐の武田家と摩擦が生じ不和になります。
そして武田家が信長包囲網に加わり三河経由で尾張に向かう際に三方ヶ原の戦いが勃発します。
武田家に惨敗し敗走する際は酒井忠次や本多忠勝の奮戦と、夏目吉信に代表される身代わり達が拒否する家康から無理矢理鎧兜を剥ぎ取り、「我こそは家康ぞ」と叫びながら武田家の追撃の注意を引き付けて家康を逃がします。
家康は影武者達に助けられて這う這うの体で浜松城に逃げ帰り、自身が恐怖と苦渋に満ちた顔を絵師に描かせた「しかみ像」を常に傍らに置き、戒めとしていたとされています。

本能寺の変の後は豊臣秀吉と対立し小牧長久手の戦いで激突します。
軍事的には勝利した家康ですが外交面で一枚上手だった秀吉に遅れをとり、その結果秀吉に屈服する形になります。
しかし秀吉が他界すると、石田三成が挙兵し西軍・東軍に分かれての天下分け目の大戦「関ヶ原の合戦」が勃発します。
当初は家康が不利な状況でしたが、西軍は三成が諸将の統制に失敗し西軍は瓦解、半日で西軍は敗走し大勝利を得ます。
これで天下の実権はほぼ家康の手中に収まりますが、依然特別な地位にある豊臣家が家康の脅威でした。
迷う家康ですがそのタイミングで加藤清正、浅野幸長、池田輝政など太閤恩顧の実力派大名達が次々と他界します。
これを契機に家康は豊臣家を完全に屈服させることを決意し、それを拒んだ場合は滅亡させるべく策動を開始します。
「方広寺鐘銘事件」を経て大坂夏の陣、大坂冬の陣に突入していきます。
大坂夏の陣では和解の条件として難攻不落の大阪城の堀を埋め立てさせます。
そして豊臣家が滅亡し、家康指揮する最後の合戦になった「大坂冬の陣」。
勝利は確定的だった家康軍ですが、思わぬ苦戦を強いられることになります。
家康に至っては自害寸前まで追い込まれる事態になります。
そこまで家康を追い詰めたのは、決死の覚悟で突撃してくる「真田信繁(幸村)」でした。
家康軍の10部隊以上と交戦しつつ、松平忠直隊15000も突き崩し、家康の親衛隊、馬廻り衆をも蹴散らして家康の眼前まで迫ります。
その凄まじさは家康本陣の馬印が倒れるほどでした。
間一髪のところで態勢を立て直した家康軍は辛くも勝利を収めます。
信繁の戦い振りに戦慄した家康は「真田日本一の兵」と称賛しました。
これの戦いで事実上豊臣家は滅亡し、晴れて家康は天下人に上り詰めたのです。

収納飾り・ケース飾り
大越忠保作 五分之一
前田利家公之兜アクリルケース飾り

大越忠保作 五分之一 前田利家公之兜アクリルケース飾り-1
サイズ
間口38cmX奥行30cmX高さ50cm

価 格
¥122,400
  • 大越忠保作 五分之一 前田利家公之兜アクリルケース飾り-1
  • 大越忠保作 五分之一 前田利家公之兜アクリルケース飾り-2
名匠忠保が再現した前田利家公の兜をガラスケースよりも頑丈なアクリルケースに入れた商品です。

【武将列伝】 前田又左衛門利家(まえだまたざえもんとしいえ)

大河ドラマ「利家とまつ」でご存じの方も多いのではないでしょうか?
加賀百万石の礎を築いた加賀藩初代藩主の前田利家。
若い頃は傾き者で有名で女物の着物や動物の毛をあしらった着物など派手な格好に、腰には赤鞘の太刀をぶら下げ、自ら塗った朱槍を携え戦場で活躍しました。
若い頃の利家は非常に短気で喧嘩好きだったといわれています。
晩年は小姓衆に「若い頃は傾いているくらいが丁度良いものだ」とも語っています。
非常に槍の扱いが上手く「槍の又左」の異名で呼ばれていました。
織田政権時代には同輩、豊臣政権時代には主となる秀吉とは清州時代には隣同士、安土時代には向かい同士の住居であったことから非常に仲が良く、夫婦共々親しくしており、子に恵まれない秀吉夫婦に四女の「豪姫」を養女に出すほどでした。
戦場でも胆が据わっており信長に「肝に毛が生えておるわ」といわれたほどでした。
初めの頃は信長の母衣衆(精鋭により構成された直属親衛隊のようなもの)の筆頭を任され多くの与力を与えられました。
後に北陸方面軍に派遣され柴田勝家の与力として上杉家と熾烈な戦いを繰り広げます。
本能寺の変後、清州会議にて柴田勝家と羽柴秀吉の対立が決定的となると、初めは「オヤジ殿」と敬っている柴田勝家に従います。
しかし親友・秀吉との友情もありどちらに従うか苦しみますが、勝家に秀吉と一時休戦の交渉をする為の使者として抜擢され、秀吉の元に赴いたところ懐柔されます。
賤ヶ岳の戦いの際は戦もたけなわに入ろうとしているときに陣を払い、退却してしまいます。
この利家の退却で柴田勝家軍の敗北は決定的になったといわれています。
敗れた勝家が落ち延びる際に利家の居城に立ち寄ると、利家は勝家を手厚くもてなし、勝家も何一つ利家を責めることはなかったといいます。
豊臣政権に入ってからは、徳川家康と共に五大老の筆頭を務め諸将をまとめる役に徹します。
正妻のまつには時に「吝嗇(りんしょく)」(ケチ)と揶揄されるほどの倹約家ですが、北条家滅亡後に家来を養えず困っている多くの大名に金を貸しており、遺言においては「こちらから借金の催促はしてやるな、返せない奴の借金はなかったことにしてやれ」と子供である利長に言い聞かせているなど懐の深い人情家の一面も見せる人でした。
人望があり加藤清正や福島正則などの武将や多くの大名達に慕われていました。
晩年の秀吉に意見できる数少ない人物でもありました。